前回からの続きで今回はルネサンス建築からです。
ルネサンス建築
15世紀頃に都市フィレンツェで起こった古典回帰の建築ブームをルネサンスと呼ぶ。この動きは街がどんどん裕福になっていく過程で、人々がクソ教養を身につけていったことが理由と思われる。歴史マニアが増えたってこった。
私自身の話の言えば、旧いものにブームを求めるのは大嫌いで、世の中に何の進歩ももたらさない停滞的な動きだと思っている。たとえば、漫画やアニメや旧いものがリメークされるのは本当に嫌いだ。映画とかでもリメークものは絶対に見ないたちなのだが、ルネサンス建築という懐古主義運動がその後に及ぼした影響は一見の価値があるだろう。
フィレンツェの優秀な石工たちは、自分たちの国に保存された歴史的な記念碑の周りに競うようにして、お尻を守るシートを拡げ、そこへ安着し、木炭とパルプ紙を取り出し真剣に入念にスケッチを始める。素描の訓練は現代においても、建築科の学生に要求されている。建築科の学生の異常な絵のうまさはフィレンツェの熱心な石工たちの芸術精神から来ていたのだ。
とはいっても、ローマ時代の大浴場やら神殿、パビリオンを15世紀の手狭な都市部に再現するのにはあまりにも無理がある。空間的・経済的問題としてそんなゆとりは取れやしない。
田舎地方に建てるにしても、賢くなりすぎた人達からどうやってそんな大規模なものを作るお金を調達するかという話になる。奴隷でなんでも賄えた当時と15世紀では人件費事情が違うだろう。(そもそも奴隷はモノであり、物価というのは通常時代の歩みとともに上がり続けるからだ)
そのため、ルネサンスという復古建築運動は、ローマ時代のデザインを意識しながらも、それを中世後期の事情に落とし込む努力が必要とされた。これぞ、故きを温めて新しきを創るの典型的ムーブメントだ。
ルネサンス建築運動はそれまでの自然発生的な流行というよりかは、かなり意識的な動きだった。新しい建築家たちは、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの『建築十書』を深く読み込み、自分たちの時代に古代のデザインをまとわせるに必要な要素は何であるかを日夜研究した。
初期ルネサンス建築では、フィレンツェ市民のレオン・バティスタ・アルベルティが、そのような学芸的な流れの中で、彼らの研究の成果を披露する役割を得た。リミニのテンピオ・マラテスティアーノや、マントヴァのサンドレア聖堂では小規模な凱旋門を装備させ、中世の教会に古代的風格を備えさせるのに成功している。


フィレンツェから少し離れたトスカーナはピエンツァという寒村地にもルネサンスの風が吹く。教皇ピウス2世が己が故郷に文字通りの錦を飾ろうとて、町全体に古代復古の景観を与えようと奮闘した。
町にはパラッツォ風の教皇家の邸宅、市庁舎や教会が配置され現代でもその歴史的景観を見事に保存している。(グーグル・マップのストリートビューなどでチルコン・パッラアツィオーネ通りを探索してみよう!整然とした並木の道の脇に立ち並ぶ古代的風格の建物群が私たちを強く惹きつけてくる)
ミラノを中心とするロンバルディア地方では、傭兵隊長として知られる町の支配者が注文した、ベルガモのコッレオーニ礼拝堂がある。同じく傭兵隊長として活躍したモンテフェルトロ家の居城、ウルヴィーノのパラッツォ・ドカーレの回廊にもルネサンス的な味付けがなされた。高位聖職者だけではなく、武人上がりの人間もこうして、歴史的建造物のオーナーの座を占めていた事は書いておかねばなるまい。
北イタリアから始まった古代復興ブームだが、時を経てローマにもその流れが伝播する運びとなる。イタリアの中心地には、古新しい建築スタイルを目指すべく多くの建築家たちが集まり、そこから生まれた天才によって多くの傑作が次々に世に誕生していった。
その中でも、ドナート・ブラマンテのサン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂は、ルネサンス建築の完成形として名高く、古典要素を当時代に見事にミックスさせている。ブラマンテの愛弟子であるラファエッロ・サンツィオも先輩のツテでローマの宮殿にお呼ばれして、ルネサンス技術を開拓した。

ラファエッロは古代遺跡調査の監督官にまで就任し、ウィトルウィウスの建築十書の翻訳を企画し、イタリア各地の地面の下に眠る遺跡の発掘、忘れ去られた遺構から発見した古代の建築図面を収集し、精力的に古ローマのヴィジュアルを彼の頭の中の小宇宙に描いていくのだった。
ルネサンス末期の建築
イタリアの都市国家が政治経済で遅れを取るようになるにつれ、ルネサンス建築という一度開いた大花は次第に枯れていき、別の種類の華として奇妙に蘇っていくことになる。
1527年に戦場に成り果てたローマから脱出した建築家たちは、その後イタリアの各地で彼らの個性を次々に確立していく。ラファエッロの高弟ジュリオ・ロマーノが彼のパトロンである公爵の為に増築した離宮パラッツォ・デル・テがそのような代表例として挙げられる。

この奇作は、それまでルネサンス建築で鍛え上げられた理知的な設計をあざ笑うかのような挑戦的な仕上がりを見せている。シュルレアリスムとかフリージャズみたいのとかの先駆けと言ってもよいのかもしれない。そして、ここからが次代に続くバロックの空気感を予感させているのである。
ローマからの離散がひとしおに落ち着いた頃、再び偉大な都市国家は人を吸い寄せる力を取り戻す。明るい時代を期して、ここいらでより拡がりのある空間芸術の分野について観察していこう。
ミケランジェロ・ブオナッローティのカンピドリオ広場は、古代ローマの栄光を彷彿させる彫像が舞台装置の中で素晴らしい引き立て役を買って出ている。

広場以外にも意外な目的な建築物でルネサンス分野が花開く。ピオ4世のカジノにもラファエッロの子どもたちが設計のペンをふるったのだ。
この時期には古典の名建築書として、建築十書に引き継ぐ『建築の五つのオーダー』が著され、その後数百年に渡って世界中の建築家たちに愛される書となる。アマゾンで1万オーバーで買うことでき、東京にいる人なら国会図書館で閲覧することも可能です。
広場に関しては他に、サン・マルコ広場という作品もある。こちらのはヴィネツィア風ルネサンスと言えるだろう。ヴィネツィアに近いヴィチェンツァでは、ルネサンス建築のなかでもひときわ有名なアンドレア・パラディオについて言及しておかなければなるまい。
ルネサンス期の寵児に多く見られるケースだが、パラディオも偏執的な古典オタクであり、本業の建築の他にもローマの古典劇の執筆などもしていた。
パラディオは教会や劇場などの種々の作品を手掛けたが、特筆すべきは、彼の周りにいた時代の特徴だろう。ヴィネツィア貴族たちは当時内陸部の不動産開拓に乗り出していたため、農村地帯に敷くようの領主館が必要としていた。
この仕事を引き受けたパラディオは、果たしてオーナーの望みに応えるべくの設計をする。完成されたヴィッラは正面は神殿風であり、両翼に農作業場を備えていた。実用性と見栄えという、建築という総合芸術の中でしばしば直面する課題にここで見事に応える事に成功しているのだ。

書物屋のパラディオも『建築四書』という図板入の書籍を出している。これも高価本であり、アマゾンで6万近い値段で売りに出されている。
北方ガリアのルネサンス建築
イタリアで所々に拡がったルネサンスの種子は、北方のガリア人の子孫の国ではあまり根付くことはなかった。フランスでは、王や貴族の城館などの非常に限定された建物においてだにルネサンス様式が採用されたのだ。
建築家という文化称号がなかった時代のフランスでは石工や博学の聖職者たちが設計に携わったが、ルネサンス文化のなかにあって、フランスにも建築家という立場が確立されていくことになる。
フランス式ルネサンスの中でも奇抜な風采を見せる傑作に、アネの城館などがある。イタリア文化に魅せられたフランスの新しい建築家たちも、南の教養高い芸術家に倣って本を出す。フランスからは『フランスにおけるもっとも卓越した建物』が発行された。
ドイツ系のルネサンスでは、破風のデザインに凝っている。ブラウンシュヴァイクの織物商館などはその好例であり、ピラミッド段のそれぞれに立つ聖人像が、若干のチープさを感じさせながらも個性を放っている。
ドイツはストリートビュー禁止というヨーロッパの中でも変わった国だ。こちらの日本人のブログに素晴らしいファサードのワンショットがある。ドイツやネーデルラントでは、主に市庁舎建設においてルネサンスの味付けが目立った。
イギリスのルネサンス建築
イギリスでの本格的なルネサンス建築のムーブメントは、前述の国々よりも遅かった。イギリスでは1534年に宗教改革が起き、その関係で修道院も解体され、以後は次第に宗教建築が下火となる運命に。
かといって、旺盛な不動産熱に冷水が入るわけでもないので、すぐにまた投資先が見いだされる。カントリー・ハウスなどの住宅、邸館などの世俗の建物に新しい建築技術の風味が添えられる事となるのだ。
イギリスでの有名なルネサンス建築家はイニゴー・ジョーンズで、傑作としてはグリニッジのクイーンズハウスが美しい。簡素でシンメトリカルなデザインが冴えており、キューブリックが好きそうな構図だ。

スペインのルネサンス建築
スペインは15世紀ほどまでイスラム勢力とお付き合いがあったため、イギリス同様にルネサンス建築は遅く、しかもそれほど広くは広がらなかった。スペインは前述の通りイスラム風建築が特徴的で、ムデハル様式という派手で幾何的な装飾文化が見どころである。
こうした建築文化は、その後ルネサンスやゴシックとの結びつきの中で、プラテレスコという独自の装飾様式に進化することができる。サラマンカ大学の正面がその良い引き出しだ。
他に特筆すべき傑作には、イタリア修行を経た画家ペドロ・マチューカによるカルロス5世宮殿がある。この偉大なるスペインの芸術家は、ルネサンス運動を興したイタリアですら見たこともなかったような巨大円形回廊というスペクタルを発明したのである。

バロック建築
ポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味するとも言われるバロックは、ルネサンスからバロック移行の時期において時代の流れについていけない人たちから受けた、他愛のない嫌味みたいなものだったろう。
この時代ぐらいから本格的に高位聖職者や王侯・貴族の立場者の権威が危ぶまれてきた。古い感性の貴族は、新しく吹く風が自分を追い立てるのではないかと不安になって、バロック、バロックと叫びたてたのでは?
現実にはバロックが次世代の覇者となっている。旧いおじさんたちの叫びは、むしろ若い人たちを余計に盛り上げさせるエールの形となっただろう。
バロックに代表されるボッロミーニ建築では、サン・カルロ聖堂やサンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂がひときわ素晴らしい。それまでの直線的なイメージを持つ保守的な建築から曲線を意識したデザインへ目指しているのが特徴的だ。

建築の世界では曲線の女王といえば、ザハ・ハディドだが、このような大昔から流線型への人間の本質的希求が見られていたのだ。クルマのデザインや新幹線だって流体型を目指すようになっている。彼らは空気圧力を逃すためという物理的な言い訳が成り立つが、建物をくねくねと曲がらせるのには、美観以上の要求はないのは明らかである。
ボッロミーニに影響を受けた建築家の中でも面白い経歴を持つのは、修道士で数学者でもあったグリアーノ・グアリーニだろう。サン・ロレンツォ聖堂内の数学的な多角形ドームが魅せる理知性は、人間の精神と自然科学的な美をうかがわせる。
スペインの派手装飾はバロックとの親和性も良く、外観だけでなく聖堂内のデザインにもギラギラとした神の国を演出する。カルトゥジオ会修道院の聖器室の全面に張り巡らせる夥しい装飾の数々は、目をぐるぐるさせてしまうかもしれない。

フランスにおけるバロック建築はイタリア人やスペイン人が見せたような派手派手なものとは対称的で、やや保守的な枠組みを守りながら文化が伝播した。
やはりいちばん有名なのはヴェルサイユ宮殿だろう。宮殿外観はそれほど特筆すべきものはない。ベタではあるけども、ヴェルサイユ宮殿といえば、あのスペクタルな幾何学的庭園に(例によってグーグルマップの航空写真で観察してみましょう。面白いです)、鏡の間なのだ。

ちなみに、この時代で有名のフランソワ・マンサールのマンサール屋根(マンサード屋根)は、マンサールがよく使っていた屋根であって、マンサール自信が考案したものでもないらしい。マンサード屋根については、以前の記事のマナーハウスの見出しから御覧ください。
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