騎士について(後編)

Papal-Audience-June-2013_group1 宗教

前回の続きで騎士の話についてです。

中世における実際の戦争

歴史教科書があまりにも歴史上のイベントで戦争を紹介しすぎたため、私たちの昔は年がら年中いくさをやっていたような印象を受けるが、実際には我々の祖先はそれほど常に野蛮であり続けたということもない。

前回でも少し触れたが、合戦のようなものはかなり稀な方だった。戦争といえば攻囲戦がメインであり、戦いは奇襲や待ち伏せが一般的だった。そして、戦う相手が自分たちよりも強いと判断された際は開戦を避けた。

現在の戦争でもそれは同じで、基本的には敵の姿が全く見えない場所で銃を放ったり、ミサイルで相手国の建築物を破壊したりする。ウクライナ戦争でも米国から最新兵器を借りたウクライナ兵がドローンでロシアの戦車を吹き飛ばしたりしている。

ウクライナの攻撃システムがロシアの戦車をふっとばす動画

もっと平和的には、当事者国からそれぞれ代表何名かが選出され、馬上槍試合で戦争の勝敗を決した例もあるくらいなのだ。ただ、昔の人間は今の人間よりも約束を平然と破るもので、敗戦国が講和条約を無視して、辺境の村々に略奪と殺戮に繰り出すのは往々にしてあった。

馬上槍試合がどんなものかはこちらの動画で確認されたし。こちらのは現代のものなので、競技者の安全に細心の配慮が払われ大会が行われているが、中世という人の命が軽かった時代においては人死がけっこうある激しいスポーツだった。

ちなみに死因の第一位は窒息死だ。夏の暑い日に閉塞性の高い全身甲冑に包まれて全力で動く。マスクをつけたままボクシングで闘うようなものだろう。こうした犠牲などもあって、兜なども通気性が考慮されたデザインに変わっていくのである。

戦争の勝敗を分けるもの

戦場において騎士と非騎士は報酬が二倍ほど違っていたのだが、だからといって騎士がその他の兵士より二倍も強かったなどという話にはならない。実際喧嘩の強さというのは実戦の数がものをいうため、いくらお稽古熱心な貴族さまとはいえ、初の戦場で華々しく相手を切った張ったなんてできやしなかっただろう。

現実的に軍隊の中核をなしたのは近衛騎士という、土地を持たない主君に養われている兵士たちだった。攻囲戦が多かった時代には、長期的な奉仕が求められ、王は高つく騎士団よりも雇われの歩兵たちを重用し徴用した。

では、身分だけが取り柄の騎士貴族は戦場において常に役立たずだったのかというと、それも言いすぎである。前回にも言ったが、軍事オペレーションにおいて最重要なのは規律なのだ。

しっかりした前もっての作戦計画と、それを現実に実行する手はずが整っていない限りにおいては、どれだけ腕の立つ荒くれ者がいようと物の数ではない。

中世では突撃の合図がないのに勇み足で敵側に突っ込み、陣形を崩すなどの大ミスも多く起こった。陣形を崩した所から手痛い追撃・反撃をくらう。戦闘が完全に終わってもいないのに、勝利したと早とちりして略奪を開始する。などの行いで足元をすくわれた例が多くある。

ばらばらになった強い個人をひとつ、ふたつの方向へ集中させて鋭い巨大な槍や剣に変えるのが規律であり、規律の達成には統率を持つ者の存在が欠かせない。そのような統率力は、元来においてそれぞれの軍の将校が担う。

将校は身分が高ければ高いほどよい。代々の誉れ高い戦士の家柄で、遠くからは分からないが近目で見ればそれと分かるような高価な武具を身に着け、側近たちも何かしらの気品が漂う(多分に身に着けている装備品の高級さのおかげだろうが)。武将は意志の強い目で、高い所から味方も敵も視野に入れている。

将軍は尊敬されていなければならず、ボスへの高い尊敬が強い忠義心を生み、お互いの心が同方向へ一致すればするほど、その時に生まれる大突撃は強力無比になる。

実際、自軍に結束の固い騎士団がいれば、彼らの立てたプランと彼らの組織だったスムースで無駄のないーしかもそれには揺るぎのない意志があるー攻撃が展開され、乱れた敵の陣形を足がかりに一気呵成の猛攻を期待できるのだ。規律は個人個人の力を合算ではなく乗算させる、重要な作戦要素なのである。

騎士のなり方

もう少し騎士の話をしていこう。大昔においてのそれは武勲を立てた武人への所領にて、金持ち立場を確立させた人たちのことを言っていたが、同じ者たちが権益を確立(独り占め)するようになっていくと、騎士のなり方は実力ではなく、家柄と儀式による通過儀礼的な何かに集約されていく事になる。

もちろん、家柄だけで騎士になれるというのは言い過ぎで、騎士家庭で生まれた坊っちゃんは小さい頃からの厳しい訓練を受けて、戦場でのいくつかいくらかの働きの末にやっと金の拍車を受け取るである。

騎士儀式

騎士の叙任式では新しい騎士に対して、剣と金の拍車が取り付けられる。騎士の後援者(領主や騎士の先輩)が肩を平手打ちしたり、剣の腹で叩いたりする儀式だ。こうした儀礼は、時代を得るにつれて聖職者なども同席させ、より格式張ったものにさせていった。

叙任式のあと、沐浴する。純潔の証である白のローブをまとわせ、戦いを義務付けられた戦士の務めを思い出させるための真紅の外套をはおらせる。騎士にはかせる茶色い靴下は、いずれ心で土に還る運命なのを忘れさせないためである。

騎士道

騎士になってあとも、騎士としての生活態度をずっと守っていかなくてはならない。騎士道がどのように守られていたのかを知るには、騎士のルールを違反した際の罰則がそれを証言するだろう。裏切りを行った騎士は紋章を剥奪され、かかとからは拍車を剥ぎ取られ、剣もぶち折られる。甲冑も裏返しにされた。

戦場においても騎士道精神はいかんなく発揮される。敵将の大体は貴族様なので、たとえ捕虜としてひっ捕らえたとしても、彼を一人の立派な紳士として丁重に扱う必要があった。何故なら身分の高い人間であればあるほど、見返りの身代金もはずむというものだからだ。もっとも、名前のない敵に対しては、情け無用であったことは言うまでもない。

ところで、全身アーマーで視界が著しく悪かった時代においてどうやって将校や、もっと言えば敵・味方の区別をつけていたのかは謎である。紋章は鎧に申し訳程度につけていただけだし、当時は国の軍隊を分けるコスチュームを差別化していなかったのである。中世人がどうして、同士討ちを誘う仕組みを続けたのかは謎に包まれる。

テンプル騎士団

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テンプル騎士団

騎士団の中でも最も有名なテンプル騎士団を引き合いに、修道騎士団の生活に迫ってみたい。この修道士と騎士を足して二で割ったような団体は、まさに修道士のような厳格な階級制度のもとに暮らしていたのである。

朝は主の祈りを60回繰り返すことを命じられ、戒律に反した騎士は屈辱的な罰を与えられた。例えば、仲間の騎士と一緒に食べるのを禁じられ、広間の床に座って食べるよう命じられる。…正直、これは罰ってほどでもない。少なくとも私にとっては。

戦場での命令違反はむち打ちを課せられ、酷い場合には騎士団からの除名を宣告された。正直、こんなマゾヒスト集団からは素直に除隊できた方がありがたかっただろうけども。

とはいうものの、中世では次男以下は土地を相続することも出来ず、修道騎士団は生活の安定性から言っても、魅力的に映ったのだろう。聖騎士は良い家柄が集まる騎士団だったので、社会的なステータスを得るためにもよかったのだ。病気や老齢で体が弱った時の看護も約束されていた。

ただ、実際的な生活上の利益という下世話のみを考えていたのでは面白くない。中世という信仰の全盛時代においては、聖騎士の勤めの最終先には天国が待っていると考えていた人は、現代と比較にならないくらいに多かったろう。

十字軍遠征と守れなかった聖地

修道騎士団は十字軍遠征という目的から生まれたため、十字軍の目的由来である大敵のイスラム教徒や、(当時の)異教徒リトアニア人が近辺にいなくなると、キリスト教の騎士団は彼らの目標や大義を失う事となる。

正義の実現のためには常に敵が必要であり、試練は強敵であるほど良いのだ。ライバルの消失は、彼らの高潔な精神性を削ぐ理由にもなり得た。

聖騎士が落ち目になって行くにつれ、風評は悪化の一途を辿った。軍人にありがちな傲慢の罪に加え、清貧さの売りはどこへ消えたのか、その頃には肉欲や強欲を咎める声も響いた。戦いのプロフェッショナルである彼らの臆病さを嗤う人も多くなる。

こうした声は聖地をイスラム教徒から守れなくなった事実からのもので、非難も批判もある程度において彼らの実績から帰すところであった。

聖騎士団の終わり

さらなる災難が巻き起こり、彼らを二度と立ち上がらせなくする。フィリップ四世は、王の支配も受けずに土地と富を思いのままにする軍人貴族の団体を快く思わなかったのかもしれない。

前述の通りのテンプル騎士団の悪口の流行に乗じて、騎士団の逮捕に取り掛かった。彼らの罪は、当時流布されていたキリスト教への侮辱や異端、魔術への傾倒から嗅ぎ取って、拷問により偶像崇拝の罪の告白を得た。

テンプル騎士団は解散させられ、財産の多くは他の騎士団に移管された(もちろん、このスキームを考案した王にも多額のキックバックが入っただろう)。

修道騎士団のなかでもテンプル騎士団はかような末路を得るが、他の修道騎士団であるホスピタル騎士団などは、オスマン・トルコなどの強敵とも長年戦い続けた。すべての聖騎士団が落ちぶれていったわけでもないのだ。

最終的には文明・軍隊の近代化が彼らの立場を軍事的なものから、象徴的なものへと変えていくことになる。ローマに本部を持つマルタ騎士団(以前のホスピタル騎士団)は、今日も国際慈善団体として立ち回っている。

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マルタ騎士団 爺さんばっかり。

騎士の終わり

中世後期に従って、騎士という生き方自体を否定する者が支配的になっていく。理由は、単純にカネがかかるからだ。戦争で得られるお金よりも、戦争で出ていくお金の方がよほど大きいからだ。

貴族の多くは普通の土地収入とか他のビジネスで生計を立てるほうが、軍事ビジネスよりもよほど割がいいことを知っていた。戦争をした方が利益が多いと目論むのは、プーチンのような頭の狂った人間ぐらいです。

腕っぷしの良さ意外に取り柄のない野武士からならオファーはあったのだろうが、騎士制度は生まれの良さ()などを意識していたため、文化や組織の新陳代謝は進まなかった。そもそも、高貴な家柄であるほど、生まれた時からいい暮らしが出来るのに、わざわざ戦場へ行って死ぬ危険を冒す理由などないのだ。それも、お金にならないし。

兵力になる軍人のほとんどは、相続権のない次男以下の男たちや、平民・農民階級だったのだ。この者たちは、後代にて傭兵という日払い金で戦争に狩り出る荒くれ者の代表格となっていく。

後期では、騎士になろうとするよりも、騎士身分から逃げる人の方が多くなっていく。イングランド王は兵力確保のためにある程度の土地を持つ資産家を無理やり騎士に叙任したし、貴族は貴族の方で、軍役免除金を払ってまで、軍務につくのを忌避した。

新しい時代の価値観が騎士という実際性を疑り、我々現代人は、騎士文化をロマンスや冒険譚というカタチでエンターテイメントの一種として遺産を受け取ったのであった。

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